50系1000番台(筑豊本線)



 時をさかのぼること1978年(昭和53年)、当時の僕は福岡県行橋市に住む中学1年生でした。その頃、毎週日曜日に習い事があって、その最寄り駅である南小倉まで国鉄を利用して通っていました。行橋駅から朝8時半頃に発車する日豊本線上りの各駅停車に乗車していましたね。思えば、50系客車レッドトレインとの出会いはちょうどその頃になります。同年のダイヤ改正(おそらく3月)から赤い電機に牽かれた赤い客車を利用することになり、以降、レッドトレインは僕にとって日常的に慣れ親しんだ列車となりました。国鉄時代の50系客車にはその後も続くご縁がありまして、小倉にあった予備校を卒校する1986年(昭和61年)の2月まで、よく利用させてもらいました。  

 やがて国鉄はJRに、昭和は平成に代わりました。しばらく50系客車とは縁遠い生活をしていましたが、1992年(平成4年)。北九州(小倉)の職場で働き出した頃から再びレッドトレインとのお付き合いが始まります。彼らとは久しぶりの再会だったのですが、おや、何だか列車の外観が変化しています。塗色に変化はありませんでしたが、屋根上に並んていたベンチレーターがすべて撤去されてツルツル頭に、そして1カ所だけ客室窓が埋められていて何とも個性的な姿に変わっていたのでした。実はこれ、冷房化改造なのですね。改造工事は前年春から行われ、冷房化工事施工車は車番が1000番台に改番されていました。50系客車を目にする機会が多くはなりましたが、仕事が忙しかったせいか、なかなか乗車の機会に恵まれずにいました。

 1999年(平成11年)末、それまで久大本線を当たり前のように走っていた12系・50系客車の運用が突如終了してしまいました。この頃からでしょうか、筑豊本線に定期列車として残っていた50系にも引退のうわさが飛び交うようになります。こうなりますと「現役のうちにレッドトレインに乗車しておかねばっ」となりますよね。翌2000年からはヒマを見つけては50系客車に会いに行くようになりました。

 もちろん乗車もしています。この頃のレッドトレインはすべての運用が6両編成で、通勤通学(・帰宅)の時間帯に筑豊と若松・門司港とを結んでいました。春の休日、ガラガラな車内のボックスシートを独り占め。窓を開ければ心地よい春の風を身に浴びることができます。そして、カーブにさしかかると牽引しているディーゼル機関車DD51の力強い走りも眺めることができました。いや〜、絶景かな絶景かな。(乗車を思い出してかなり興奮気味(爆))

 50系客車に乗りこむと客室への両開きの扉があり、車端にあるロングシートの先にはズラリと並ぶボックスシート、ブレーキをかけた際の独特な鉄の匂い...。我が若かりし頃の記憶は今もなお鮮明なのです。

 さて、50系レッドトレインはいよいよ最晩年を迎えることになります。それまでトイレが垂れ流し式であったため、沿線の衛生状況を考慮し(いわゆる黄害対策として)2000年(平成12年)からオハフ50のトイレが閉鎖され、下り方のオハフ50を1両を外し、代わりに循環式トイレが存置されている12系客車スハフ12を連結するようになります。もう、50系の運用終了(廃車)前提の措置であることは誰の目にも明らかでした。お別れの時期は刻々と迫っています。

 青い12系スハフを編成の端に組み込んだ姿は「珍ドコ」でありながら、なかなか画になっておりました。スハフ12は窓割りが全然合っていませんでしたが、座り心地の良いリクライニングシート車でしたね。(50系のお別れ乗車と称しながら、12系のリクライニングシートを選んでしまった自分が情けない...。) じーっと模型を眺めていますと、すっかり忘れていたレッドトレイン現役当時のあれこれが鮮明に思い出されるから不思議です。そうそう、僕が鉄道模型の教科書として定期購読しているRMMODELS誌の342号(2024年3月号)に筑豊本線50系の記事がありました。あまりにタイムリーな記事なので大いに参考にさせていただきました。

 RMMODELS誌の記事の中には触れられていなかったのですが、実は僕には模型で再現したい編成がありました。おそらく50系の全検によるものと思われるのですが、門司港駅で12系客車が2両連結された編成を見たのです。編成端にはスハフ12、次位にオハ12なのですが、スハフ12はシュプール仕様の客車なのでした。通常仕様車よりも車体裾のラインが多く、側面中央の「passenger car 12 special」の標記もイカしてますね。完成した模型を見ながら、そうそう、これこれ、と自己満足に浸りました。

 2001年(平成13年)10月5日。九州に最後まで生き残った筑豊本線のレッドトレインはこの日、ラストランを迎えて静かに運用を離脱しました。思い返しますと、ブルートレイン終焉の時のような派手なイベントもなく、50系はひっそりと引退していったように感じます。あ、思い出しました。1994年初冬のことです。日豊本線南小倉駅そばの居酒屋で夜遅くまで飲んで自宅マンションに帰る際、下り最終列車となる50系柳ヶ浦行きが構内に入線するのを見ました。前4両は煌々と車内に電気が灯っていましたが、後ろ3両は真っ暗で回送扱いだったようです。どちらかといえば地味な列車になるのでしょうけれど、なんと多くの思い出が僕の記憶の中に刻まれていることか、と今さらながら改めて思い知らされます。








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