20系客車



 1958年(昭和33年)の10月、東京-博多間を結ぶ夜行列車「あさかぜ」に元祖ブルートレイン、その頃には走るホテルと称された20系客車が投入されました。当時の技術を駆使しつつ、車内設備として冷暖房はもちろん、個室、自動販売機、食堂、シャワー、公衆電話などが装備され、まさに走るホテルの名に恥じない、画期的な列車でした。実際、あさかぜの人気は非常に高く、なかなか切符がとれなかったそうです。

 運行当初、上り方(東京方)の11号車、12号車には普通座席車ナハとナハフが連結されていたみたいですね。東京から博多まで座席車を利用しての夜行列車の旅、想像するだけでワクワクしてしまいます。でも、たとえ乗り心地が良くても疲れるかもですね。実際、乗り通す方はいたのでしょうか? 調べてみますと、1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正(ヨン・サン・トオ)まで、普通座席車が連結されていたようです。

 個人的には東京と長崎・佐世保を結んでいた20系寝台特急「さくら」が好きでした。実際に乗車したわけではないのですが、それは幼少期(昭和40年代中頃)に観た映画の影響です。夜、布団に入りつつテレビで観た映画が東京発20系寝台特急「さくら」をテーマにしたものだったのでした。(題名は失念しています。)ストーリーはまったく覚えていません。(映画の最後に鉄道員である主人公?の男性が女性(恋人?)に向かって、「この仕事を辞めるものか」と言ったのはなんとなく記憶にあります。)当時の僕は映画のストーリーなんか二の次で、動く20系客車に惹かれたのでした。車内も見れましたし。「かっけー、乗りて―」と鼻血を出さんばかりに興奮しまくっていたと思います。

 東京と九州を結ぶ20系ブルートレインは当時の花形列車でしたが、関西圏を深夜に通過することになり、同地区の利便性は大変に悪いものでした。ブルートレインを望む声も多かったことから、東海道新幹線開業の翌年である1965年(昭和40年)、新大阪と西鹿児島・長崎を結ぶ20系寝台列車「あかつき」が誕生します。手元の資料によりますと、下りは新大阪を18:30に発車して西鹿児島に10:33着。鳥栖で分割した編成は長崎に7:49着となっています。上りは西鹿児島19:25発、長崎22:00発で終点新大阪には11:40着となっていました。現在、山陽・九州新幹線のみずほ号に乗れば、新大阪〜西鹿児島(鹿児島中央)間の所要時間は4時間弱。こりゃ夜行列車の立場はないですね。(汗;)

 1968年(昭和43年)、新大阪と宮崎を結ぶ20系寝台特急「彗星」がデビューします。前述の「あかつき」もこの「彗星」も、20系オール寝台車で、電源車を含めて堂々の15連が運用に就きました。北陸生まれの小柄なED74が15両ものブルートレインを牽いて日豊本線を快走する姿をこの目で見てみたかったなと今更ながら思います。なお、同時期に昼夜を問わず活躍した寝台電車581系・583系も関西ブルトレに混じって九州内に顔を見せていました。昭和40年代、まさに世は夜行寝台列車の最盛期を迎えていたのですね。

 20系客車の運用で興味深かったのは、国鉄末期頃まで急行日南・かいもんとして12系客車に併結されたことでしょうか。門司港と西鹿児島を結んだ急行日南では12系・20系の混成7両で運用され、門司港方6号車・7号車に20系客車が連結されていました。5号車のスハフ12が指定席で、下りの日南はこの3両を宮崎で切り離していたそうです。1986年(昭和61年)に24系客車に置き換えられるまで、20系寝台の旅をゆったり楽しむことができました。

 実を言いますと僕は20系客車に乗車したことがありません。20系を身近に感じたのは平成の初め頃、博多駅のホームで急行「玄海」を見た時でしょうか。この時すでに車体はホリデーパル色に塗り替えられていてブルートレイン感はゼロでしたが、突然の登場にうわっ、20系じゃん!と感激しましたね。

 

 お恥ずかしながら、僕が20系のファンになったのは最近のことであります。鉄道専門誌でブルートレイン特集を興味深く読んでからというもの、自分から関連する本を買い求めるようになり、知れば知るほど20系の魅力に取りつかれていきました。客車だけではなく、その牽引機もまた魅力的なのですよね。まだまだしばらくは20系熱が続きそうです。








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