さようなら! 寝台特急富士


 2009年3月13日、寝台特急富士(富士・はやぶさ)がとうとうラストランの時を迎えました。どのような列車であれ、その最後には人それぞれに万感の思いが込み上げてくるものでしょうが、僕にとって東京〜九州間を結ぶブルートレインとの別れは格別につらく、悲しいものでした。僕の子供時代のアルバムの中に、昭和47年頃に撮影された一枚の白黒写真があります。スハネフ14-1の車内から窓の外を見ている僕を父親がホームから写したものです。子供の時に2回だけブルートレインに乗車しましたが、親の話によれば僕は一晩中通路側の座席に座り、飽きもせずに流れる車窓をずっと見続けていたといいます。大学生になってからは、東京に出向く機会があるごとに必ず寝台特急富士号を利用しました。大げさにいえば、僕にとって富士号は地元九州と憧れの東京を結ぶ夢の列車なのです。その富士号と3月5日に大分駅で、ラストランの時には中津駅でお別れをしてきました。まずは3月5日の記録です。

 

 

 

  

 

 次にラストランを中津駅で見送った時の記録です。(ちなみに薄暗い中の撮影で画質が悪かったので、パソコンで画像処理しました。フラッシュは使用しておりません。)

 

 

 3月13日の中津駅、上り3番4番ホームは富士号を見送る人々でごった返しました。僕は10年来中津駅と縁がありますが、ホームでこれほど多くの人を見たことはありません。鉄道ファンの姿はもちろん、親子連れ、年配の夫婦、学生とおぼしき若い人たち、皆がそれぞれに最後のお別れをしていました。車体をさすりながら別れを惜しんでいる人を見て、今日が最後とばかり僕も真似をしました。富士の車体に触れた瞬間に、胸を弾ませて富士に乗り込み東京に向かったこと、今は亡き祖母と二人で群馬を目指し富士に乗車したこと、ロビーカーから眺めた街の夜景に感動したことなど、富士にまつわるいろいろな思い出が走馬灯のように頭をかけめぐり、不覚にも涙を流してしまいました。あっという間に出発時刻となり、去り行く富士を見送る人々に混じって大きく手を振って別れを告げました。

 翌日の大分駅周辺では、列車の大幅な遅延があったにもかかわらず、沿線の人々が最終富士の到着をずっと待ち続け、あちこちで手を振る光景が見られたと聞きます。ファンのみならず、地元の人たちからも深く愛された列車だったのですね。富士の無き後は、自分の歴史の一部がポカンと空白になってしまったような虚脱感を僕は今もなお感じています。



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