昭和59年・60年の思い出

 昭和59年4月、僕は実家があった福岡県行橋市から予備校がある小倉まで毎日電車通学を始めることになりました。長く苦しい予備校生活の中、好きな鉄道に毎日乗車できることが唯一の心の救いでありました。(笑) おそらく高校生の方もそうでしょうが、朝の始業に間に合うためには毎日決まった時刻の列車を利用することになります。もちろん帰りの列車も。今回は昭和59年、昭和60年に利用し、お世話になった列車たちをNゲージで振り返りたいと思います。

 

2422レ

 日曜日を除く毎日、僕は行橋駅から小倉駅まで2422レを利用しました。小倉駅から予備校までゆっくり歩いて約25分程度でしたので、この列車は小倉到着がちょうどよい時刻なのです。50系客車(レッドトレイン)で運用されていた列車ですが、行橋で増結するために確実に着席できたのでした。

 この列車の始発は田川後藤寺です。田川線を経て行橋で日豊本線に合流し、そのまま終点の門司港駅まで走るのですね。田川線内は6両の客車がDE10に牽かれておりまして、行橋駅2番線に入線します。

 行橋駅ではおそらく一晩を構内で過ごしたであろう50系客車4両が電気機関車ED76に牽かれて1番線と2番線の間にある中線の小倉寄りに待機しています。DE10の切り離し作業が終わり、ホームを離れますと客車がバックで2番のりばにゆっくり入線します。連結作業が終わってドアが開き、乗車できます。

 

 

 行橋を出た2422レは10両編成となって門司港を目指します。なお、通勤ラッシュ時の時間調整なのでしょうか、途中の安部山公園駅と西小倉駅は通過していました。時々ですが、走行途中に悪ガキ高校生たちが車内アナウンスのマイクでいたずらしていましたねえ。「あー」「うー」なんて放送していましたっけ。そんな彼らも今や50を過ぎたオッサンに。(遠い目...)

 

527レ

 予備校への通学で、行きは2422レオンリーでしたが、帰りはだいたい3パターンがありました。ほとんどの予備学生が20時40分まで自習で居残りする真面目な予備校でしたが、授業が終われば基本的に自由でしたので、ごくまれに早い時間帯の列車を利用することがありました。といいますよりもわざとこの列車を狙った、といっても過言ではありません。それが527レです。

 この列車は宇佐行きと田川後藤寺行きとを併結した50系客車列車なのですが、前7両が宇佐行き、そして後ろ6両が田川後藤寺行きで合わせて13両の長大編成だったのでした。行橋到着後に分割しますので、僕はガラガラの客車の最後尾に座って13両目の後方ドアがホームからはみ出さないかとワクワクしながら見ていました。模型で再現しても寝台特急かっ、というくらい長いです。(ドローンによる空撮みたいに上方から撮影してみました。)ちなみに切り離した後ろ6両の田川後藤寺行きが翌日の2422レになったのではないかと。

 

2553M

 この列車にもよく乗りました。折尾発、新田原(しんでんばる)行きの2553Mです。小倉駅に到着後、進行方向を変えて日豊本線に入り、終点を目指していました。421(423)系電車、あるいは415系電車の2編成併結8両で運転されていた列車なのですが、冷房車と非冷房車がランダムに運用されておりまして、夏場に運が試される面白い電車でした。小倉駅の6番のりばに並んで待っていますと、左手方向奥の鹿児島本線側から電車がこちらに向かってくる様子が見えるのですが、6番線のホーム手前で両渡り線をクネッと転線した際、屋根にかまぼこ板みたいなクーラーが載っているのがわかり、この4両に乗車できれば「当たり」で、前面窓がでかくて屋根に円盤が並んでいれば「ハズレ」。ハズレの場合、混雑した車内で立ちながら天井に掛けられた扇風機の風に吹かれながら行橋を目指したのでした。

 

2441D

 おそらくこの列車の乗車機会が一番多かったと思います。予備校での居残り自習を最後の時間まで行って小倉駅に着くと、だいたいがこの列車に間に合うタイミングでした。この列車は下関発(田川線経由)田川後藤寺行きという気動車なのですが、1番のりばで待っていると、いつも形式の統一されていない3両編成であったことを今でもよく覚えています。俗にいう「珍ドコ編成」ってやつですね。先頭車がキハ52(もしかしたら首都圏色だったかな?)というパターンが多かったように思います。21時58分に行橋駅を発車し、クネクネと田川線に転線していきました。駅前の自転車預り所に寄って、自転車で帰宅。おそらく22時15分ごろの帰宅でしたね。よく頑張ったなぁ、あの頃の自分。

 

6D まつかぜ4号

 昭和60年3月、山陰地方にある大学を受験するために利用したのが「まつかぜ4号」でした。僕にとってこの列車への乗車は、なにかにつけて印象深いものとなりました。記憶を辿りますと僕が乗車したまつかぜ4号は6両編成。先頭車から6号車と5号車が自由席。(5号車あるいは4号車が減車の7号車、6号車だったかもしれません。)続く4号車と一番後ろ1号車が指定席。3号車は食堂車で2号車はグリーン車でした。僕は最後尾の指定席車両に乗り込んでいます。

 僕がキハ82系に乗車した経験は後にも先にもこの時だけなのですが、座席がやや硬めで6時間を超える乗車でお尻と腰が痛かったこと、窓に一筋の油滴がブルブル震えながら斜め下に流れていったこと、室内が少々油臭く感じたこと、などが今もなお記憶に新しいです。しかし何よりも、その月に実施されるダイヤ改正をもって食堂車が営業を終了するというアナウンスを聞いて、急いで食堂車に行き、それほどお腹が空いているわけでもないのに定食を頼んだこと。これは一番の思い出ですね。運よく海側のテーブルに着くことができ、山陰の海を眺めながらの食事。今となってはとても貴重な経験だったと思います。

 以上、今は昔の物語でした。それにしても時が経つのはあっという間ですね。国鉄時代は遠くになりにけり、の心境です。



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