1枚の切符から 

 つい先日のことです。ヒマつぶしに某オークションサイトを覗いていたら、出品一覧の中にある1枚の切符が僕の目に留まりました。それは昭和50年11月14日発行の日豊本線南小倉駅の入場券(硬券)でした。昭和50年当時、僕は生まれ故郷の小倉に住んでおりまして、自宅の最寄り駅が国鉄南小倉駅だったのでした。その切符の画像をじーっと見つめていますと、不思議とあの頃の生活が鮮やかに脳裏に浮かんできたので即入札!!

 当時の僕は小学4年生。南小倉駅にほど近い清水(きよみず)小学校に通学する児童でした。その頃の僕はすでに鉄道が大好きな少年になっておりまして、学校の昼休みにはほぼ毎日のように数人の友だちと一緒に校庭に出て、ブロック塀の向こうの日豊本線を走る列車の運転士さんに皆で手を振るのでした。運転士さん方は手を振り返してくれたり、敬礼してくれたり、ちょこっと警笛を鳴らしてくれたりとさまざま反応してくれてその都度、僕は仲間たちと一緒になって歓声をあげていました。当然、無反応の運転士さんにはブーイング。(笑)

昭和50年当時の僕。バナナを食べているおサルさんではありません。

 あの頃、自宅から小学校がとても近くて、ゆっくり歩いても10分とかかりませんでした。毎朝、登校前にテレビでアニメ「ワンサくん」を観てから8時ちょい前に家を出ていたっけな。通学途中、2つのパン屋さんの前を通り(自宅の2つ隣りがエーワンベーカリーでした)、焼きたてパンの香ばしいにおいを胸いっぱいに吸い込んで登校していました。(笑)そうそう、学校の正門前の小道にはお総菜屋さんがずらりと並んでいて、(ホントはダメなんだろうけれど)学校帰りに友だちとたこ焼き(イカ焼き、お好み焼きだったかな?)を買って食べたっけ。自宅のお風呂はガスではなく、薪を燃やしてお湯を沸かしていて、薪燃やし係はたいてい僕。まだ明るい秋の静かな夕暮れ、ひんやりした外の空気と薪が燃える匂い。子どもながらに人生を感じましたねえ。(笑)そんなことまでも自然と思い出されます。

国土地理院 航空写真 昭和50年3月撮影

 休みの日にはわざと旧型客車を狙って、友だちと一緒によく門司港駅まで行き往復していました。今じゃ考えられんですけど、走行中、客車デッキの開いたドアのところに立って外の風を全身に受けながら、手すりを汗ばむ手でしっかり握りしめつつドキドキなスリルを味わっていましたね。紫川の鉄橋を渡る時、川沿いのたくさんの木造小屋が川に突き出して並んでいるあの独特なモノクロの光景は今もなお目に焼き付いています。

男子のクラスメート。この中に鉄仲間(笑)がいました。丸印が僕デス。

 さてさて、当時の僕は放課後や休日など時間があれば父親の古いカメラを借りて、南小倉駅付近でよく列車を撮影していました。僕自身、カメラの腕なんか語るほどの価値もないうえにカメラ自体が実に貧弱でですね、シャッターを押してから「カシャ」と音がするまでタイムラグがあるという...。結果、ダメな写真しか撮れませんでしたが、それでも撮影がとても楽しくて、ボロいカメラを手にしてよく線路沿いへと出かけておりました。

  左:旧型客車 昭和50年 右:現在(グーグルアースより)

 この南小倉駅横の踏切ですが、たしか当時は踏切警手がいましたね。列車が接近、通過するたびに手動で遮断幕の上げ下げ、非常に神経を使う大変な仕事だったと思います。ドアを開放している客車の風景も併せて、今の子どもさん達には想像もつかないような時代を僕は生きていたのでした。そうそう、踏切の向こうの道の左側の建物には小さな書店があって、毎週少年チャンピオンを購入していたっけ。ブラックジャック、がきデカが特に好きだったなあ。あっ、親にねだってUFOの写真集を買ってもらった記憶もあるぞ。

  左:旧型客車の後追い 昭和50年 右:現在(グーグルアースより)

 線路沿いの道路向かいには「魚健」という大衆料理屋さん(?)が入っているビルがあって、そのお店の100円うどんは本当においしかった。その魚健を背にしつつ線路にカメラを向けて列車を狙います。

  昭和50年 左:475系急行 右:キハ10?

 ある日、担任の先生から「自由なテーマで詩を作りなさい」という宿題が出されて、僕が書いた詩の題名が「日南号」(笑)。「学校のこうていに/日南号がつうかする。/ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。/今日もたくさんの、お各(注:原文のまま)さんを/たくさんのせて/ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。/七両へんせいの、宮崎行き/ぼくは電車がすきだ/とくに電車の中で/日南号がかっこいいと思う。(後略)」っていう(爆)。そうか、7両編成とありますからビュッフェ車のサハシを組み込んでますね〜。これはもう急行電車の全盛期です。今朗読しても国鉄華やかなりし頃を偲ぶことができる感動的な詩だと思うのですが、「お各さん」と書いていても、先生は原稿用紙に検印は押しても赤ペンで訂正はしてくれていません。先生、真剣に読んでくださいよー。(トホホ...)

  左:ED76 昭和50年 右:現在(グーグルアースより)

 ある土曜日の午後、いつものようにカメラを持って線路沿いの金網にへばりついていたら、こちらに向かって歩いてきた清水小学校の先生に声をかけられました。「おい危ないぞ、悪いことしとらんやろな、お前、清水小か?」「南小倉小ですっ!」ってウソをつく必要があったのだろうか?

   左:DD51 昭和50年 右:現在(グーグルアースより)

 南小倉駅の構内には3本、山田弾薬庫に向かう線路の側線がありました。そういえば清水小学校の校庭横にも引き込み線用の渡り線がありましたっけ。当時はすでに廃線となった後でしたけど、南小倉駅を出て日豊本線と別れた引き込み線の線路はかなり残っていました。ある日曜日、散歩を兼ねて父親と廃線ウォーキングしたのはいい思い出ですねえ。小川を超える小さな鉄橋を渡るのもドキドキで、探検の気分を味わいました。悲しいかな、今ではもうその痕跡すらありません。

   左:車掌車(のおしり) 昭和50年 右:現在(グーグルアースより)

 10月は僕の誕生月です。昭和50年10月の誕生日に母親は僕を連れ南小倉駅に行き、小人用入場券(当時たしか10円)をプレゼントしてくれました。オークションに出品されたこの切符が購入される約1か月前のことです。さてこの切符ですが、幸い落札することができまして今は僕の手もとにあります。切符を手にしながら45年前、旧客のデッキで感じた風のにおい、自宅の並びにあった銭湯からの帰り道に見上げた星空、漫画家の山上たつひこ先生からファンレターの返事が届いて大喜びしたこと、など、少年時代に経験した数々の思い出に浸りつつ、静かな夜を過ごしています。

 <おわりに>

 小学生の時、引っ越しにともなって僕は2回の転校を経験し、3つの小学校に通いました。その中でもこの清水小学校での日々は格別に楽しく感じ、イヤな思い出が一つもなく、何気ない日常の出来事の記憶が今もなお鮮明なのですね。これは仲良しの友だちに恵まれたこと、大好きな鉄道が身近にあったこと、新鮮で印象深い出来事をいろいろ経験できたこと、が大きな要因ではないかと思っています。少年時代、小倉で過ごした日々は本当に幸せでした。45年前、短い間だったけど特に僕と仲良くしてれたK田君とS井君。たくさんの楽しい思い出をありがとう! 親から転校を告げられた時、仲間たちとの別れがイヤで大泣きしたんだよ。本当はもっと一緒に遊びたかったな。そして清水小学校を一緒に卒業したかったな。今も元気にしているかい?おそらくもう二度と会えないんだろうね。この場を借りて、っていうのも変だけど、お別れの時に言えなかった感謝の気持ちを今伝えます。 1枚の切符を手に「ああ、あの日に帰りたい」とため息をつくオヤヂのお話でしたとさ。(チャンチャン♪)





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