九州を駆けた国鉄型電機たち(その1)


 2021年、JR貨物が発表した事業計画に関するプレスリリースにて、EF510形交直両用電気機関車が九州地区へ投入されることを知りました。これは門司機関区に所属している国鉄時代に製造されたED76とEF81の置き換えを意味することは明らかです。ですが、新型機関車への置き換えの理由が「故障による輸送障害を未然に防止するため」と発表されていまして、そうであるならばこれは致し方ないことですね。というわけで、やがて姿を消すであろう九州の国鉄型電機の歴史を模型(Nゲージ)で振り返ってみようと思いたちました。過去の鉄道雑誌で下調べをしましたが、いやはや、これがなかなか奥が深いのです。

EF10形

 現在、交流電化がメインの九州ですが、意外なことに電気機関車の歴史は直流型から始まっています。そしてそれは関門トンネルの開通と大きく関係しています。当時の日本は第2次世界大戦の戦時下。石炭・鉄鋼輸送のための重要な戦略路線として下関と門司を海底トンネルで結ぶ計画が立てられ、1939年(昭和14年)に試掘を開始、その後突貫工事を経て1941年(昭和17年)にトンネルは開通します。下関・門司間は直流電化区間とされたため、トンネル開通前からEF10形が航路で門司機関区に運ばれたそうです。

 このトンネルは開通当初から海水の漏れが多いため、それをもろにかぶってしまう機関車の塩害を防ぐべく、EF10形の24・27・35・37・39・41号機はステンレスの車体とされまして、その中でも24号機は未塗装のまま活躍しました。このスタイルが後のEF30形に大きく影響することになるのですね。

 1961年(昭和36年)6月には門司〜荒木間が交流で電化開業したために門司駅構内も同様に交流電化する必要が生じまして、EF10形は吹田区や新鶴見区へ転出します。(24号機は新鶴見区へ)

 EF10形24号機を眺めていますと、その鮮やかな銀色の向こう側に戦争の暗い影、日中も街を黒く覆い尽くしたという八幡製鉄所の煙突から出る煙などが思い起こされます。

EF30形

 

 EF10形が活躍していた頃は門司駅構内、門司機関区は直流電化でしたが、九州内の交流電化が進むにつれて門司駅構内は交流にする必要が生じました。そこで直流・交流の接続点を門司駅構内と関門トンネル西口の中間としたため、交直両用の機関車が登場します。それがEF30形でした。1960年(昭和35年)に試作1号機が落成し、北陸本線で走行試験が行われました。車体側面は滑らかなステンレス無塗装ボディで赤い帯をまとっており、搭載機器の関係で2号機以降の量産機よりも車体長が1300mm長いのが特徴です。さて、交直両用電機とはいえ直流区間での活躍がメインとなりますので交流区間での出力は大幅に縮小され、同区間では最高速度が毎時45qに抑えられています。

 1961年(昭和36年)11月に門司区最後のEF10形41号機が吹田区に転属後、門司機関区と門司駅構内は交流電化になりました。同時に20系客車のデビューに続いて九州ブルートレインの全盛期、そして昭和50年代後半のブルトレブームと、EF30形花形時代の到来です。また、ステンレスボディは関門の象徴となりまして、よりEF30形を印象づけるものとなっています。同機の運用は旅客列車が単機牽引で貨物列車は重連牽引となっていました。

 1984年(昭和59年)にはブルトレブームをきっかけに門司区のEF30形にヘッドマークが復活しました。これは同系列の全廃となるその後2年間、もっともファンの注目を浴びた期間ではなかったかと思います。門司区をイメージしつつ、遊びでヘッドマークをつけてみました。(実車では1号機の富士はなかったかもです。)

 EF30形は合計22両が製造されました。たった10分程度の牽引仕業でこれほどまでに注目される存在も珍しいのではないでしょうか。その無塗装ステンレスボディのスタイルは後輩のEF81 300番台に引き継がれることになります。

九州を駆けた国鉄型電機たち(その2)





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