九州を駆けた国鉄型電機たち(その2)


ED72形・ED73形

 

 門司機関区にEF30形が登場したほぼ同時期に、南福岡区にED72形の試作機1号機と2号機が配備されました。この時はまだ門司区にEF10形がいた関係で、門司駅構内は直流電化区間。そのようなわけで交流専用機であるED72形は同区域に入線できず、南福岡区では性能の確認と乗務員の運転習熟訓練が行われたようです。なお、3号機以降の量産機は主電動機の変更が行われていますが外観の変化が顕著で、オデコの前灯が左右に分割配置となり洗練された雰囲気に、側面の窓とフィルターも機能的な配置となっています。

 僕はまったくの素人でちんぷんかんぷんなのですが、ED72形、ED73形ともに水銀整流器を用いた電機の完成形とされています。両者とも高出力能を有しており、重量級貨物列車をけん引する際にも空転することなく、優れた性能を発揮したそうです。しかしながら水銀整流器はメンテナンスが非常に大変らしく、また走行で揺れる電機の中で安定した性能を発揮するのが難しく、当初は故障が頻発したという保守現場泣かせの機器だったようです。加えて有毒物質の水銀を用いていたことで結局のところ普及はしませんでした。 

 製造時より、ED72形は旅客用でED73形は貨物用とその役割りが決められていました。ですからED72形は客車暖房用の蒸気発生装置を装備しており、ED73形に比べて車体長が長くなっています。水と油を積載するため重量の変化が大きく、2軸の付随台車を中間に設け、その台車荷重を空気ばねの圧で調整していました。以上のような差異はありましたが、ED72形もED73形も性能面では差異はなかったようです。

 

 昭和36年11月に最後の直流機EF10形が吹田区に転属し、以降、門司機関区・門司駅構内は交流電化となり、ED72形、ED73形共に駅構内に入線が可能となりました。これで門司−鳥栖間は交流電機による牽引が可能となったわけです。ここに九州の赤い電機の本格的な活躍が始まったことになります。

 さて、ED73形ですが、ずっと貨物専用の牽引仕業を行っていたのか、というとそれは違います。151(181)系直流型特急電車の博多乗り入れに伴い、次位に電源車となるサヤ420形を従えてその牽引を行っていました。その際、サヤ420形の非常用パンタ下げスイッチ取り付け工事が施されています。  

 そして同機はヨン・サン・トオ(昭和43年10月)のダイヤ改正で20系ブルートレインの牽引仕業を受け持つことになります。その際、すでに設置済みのパンタ下げスイッチが役立ち、高速運転に対応した電磁ブレーキ用のジャンパ栓を加え、22両すべてが1000番台に改番、ブルートレインの牽引に大活躍しました。ED73形は当初旅客用に製造されたED72形よりも華やかな旅客仕業を受け待っちゃったという...。

 ED73 1003号機

 両機ともに「ハト胸スタイル」と呼ばれた、正面窓の下部分が盛り上がった形状をしていました。僕はスピードをイメージしたデザインかと思っていましたが、実際のところは運転室内を少しでも広くするための設計だったようです。後年、両機ともに水銀整流器から保守の容易なシリコン整流器への載せ替え改造が施され、ED72形の一部は蒸気発生装置が取り外されました。

 蒸気発生装置が取り外されたED72 20号機

 さまざまな改造を受け、ED72形、ED73形ともに結果的には昭和56年頃まで活躍していたそうです。僕はED72形1号機には九州鉄道記念館で、そしてED73形1016号機には小倉工場まつりで直接会っています。当時すでに1016号機は腐食がひどく、残念ですがほどなくして解体されたと聞きました。

 ED73 1016号機

 個人的な好みなのかもしれませんが、ED72形、ED73形はともにブルートレインの牽引がよく似合うと思っています。(もとより赤い電機と青い客車の組み合わせがカッコイイですからね。) 特徴的なハト胸も誇らしく寝台客車を牽引する姿は、たとえ模型であってもとても絵になります。それにしても実車が現役だった姿を記録に収めることができなかったことが本当に悔やまれます。ともあれ、この両形式が九州電化の歴史に大きな足跡を残したことは間違いありません。


九州を駆けた国鉄型電機たち(その3)





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